黛民族舞踊団は、前進となる黛節子舞踊団(1956~)から歩みをスタートさせました。黛節子舞踊団は、日本各地に点在していた民族舞踊の数々(八木節、ソーラン節、津軽じょんがら節、伊予万才など)が、観光産業化の過程で形骸化し、その本来の姿や文化的背景を失っていくことに危機感を抱き、それらの舞踊文化を舞台芸術として再構築し、次世代へと保存・継承していく活動に長年取り組んできました。

黛節子舞踊団

初代団長 黛節子(右) と 現団長 黛琉美(左)

東京都青果物商業協同組合の会合にて(1962年)

パリ三越オープンセレモニーにて

黛節子舞踊団公演 1960年当時のチラシ

鐘ヶ淵化学高砂工場にて(1968年)

三越ファッションシスターズ発表会 サマーフェスティバルバラエティショーにて
黛ビルは、当時黛節子舞踊団の稽古場が置かれていた赤坂の地に建設されました。以後、今日に至るまで黛民族舞踊団の稽古場や公演会場として大切に受け継がれ、使用されています。

地鎮祭


黛ビル建設中

黛アートサロン開場のお知らせ

黛ビル 竣工記念

1967年 黛アートサロン 舞台開き
黛ビル完成後は、定期公演である「黛アートサロンの夕べ」や、中国の舞踊家を招いた日中文化交流会など、黛アートサロンを拠点にさまざまな公演や研究会を開催し、黛民族舞踊団の活動がより盤石なものとして確立していきました。

第23回 黛アートサロンの夕べにて「花念仏」(1975年)

第30回 黛節子の夕べにて「伊予万才」(1980年)

「新春の宴」にて踊りを披露する黛節子と黛莉香(1982年)

国際エネルギー博 ジャパンウィークにて(1982年)

黛アートサロンにて日中文化交流会(1985年)

民族舞踊交流のため中国雲南省を訪問(1985年)
黛節子は、「道程」や「智恵子抄」など、数多くの著名な作品で知られる高村光太郎先生と十余年にわたって親交を持ち、折々に手紙を交わしました。
高村光太郎先生ご本人から「智恵子抄」の舞台作品化を許された唯一の舞踊家として、昭和24年(1949年)に初演を帝国劇場で、その他多くの会場でも舞台版「智恵子抄」を披露しました。

1957年5月7日~11日 大和証券ホールにて開催された「黛節子傑作集」パンフレットより



高村光太郎先生没後一年に寄せた黛節子の文書
黛節子は、戦後間もない頃から志賀直哉先生のもとを訪ね、「荒絹」の舞台作品化を願い、長年にわたって上演の実現に取り組みました。昭和33年(1958年)に読売ホールにて清水脩氏作曲指揮のもと初演されました。

1958年6月6日~7日 読売ホールにて開催された「黛節子の会」パンフレットより




作曲家 遠藤実氏と黛節子

株式会社ヤシカ創業者 牛山善政氏と黛節子

音楽家 リカルドサントスと黛節子

随筆家 十返千鶴子氏と黛節子

歌手 丸山明宏(美輪明宏)氏と黛節子

女優 杉村春子氏と黛節子

文化庁次長 加戸守行氏と黛節子

文化庁長官 遠山敦子氏と黛節子

大韓民国 慶煕大学舞踊科名誉教授 金白峰氏と黛節子